カップいっぱいのグリーンティー

ジャニーズWESTと神山智洋くん、ときどき日常話のブログ

『エレファント・マン THE ELEPHANT MAN』を観た話

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『泣くロミオと怒るジュリエット』を観た話を公開しておきながら、『正しいロックバンドの作り方 夏』を観た感想も書かずにこのエントリを出しちゃう。そんな私は神山担(激重オタクゆえ、神山くんに対する想いを長文記事化するのは大変しんどい作業だ)。
ロミジュリのときと同じように、いわゆる演劇というものから投げかけられる沢山の“問(とい)”をまざまざと見せつけられて、いろいろ感じたことがあったので書いておく。

※パンフレットや関連記事などを読まないまま勝手に書いているので、解釈違いも大いにあると思いますがご容赦ください。
※演出について触れている部分があります。ネタバレを気にする方はご注意ください。

setagaya-pt.jp

私が観劇したのは11月8日。世田谷パブリックシアターに行くのは、敬愛する浜中文一様が出ていた『マクガワン・トリロジー』(2018)以来。これがわりと衝撃的な内容だっただけに、世田パブは重厚感のあるお芝居を演るハコという印象だ。
エレファント・マン THE ELEPHANT MAN』を観ても、その印象は変わらなかった。

諦めてたチケットを奪取するまで

そもそも私はファンクラブ枠のチケット戦争に負けていたので、「まぁ(主演の)小瀧くんは担当じゃないし、今回は観られなくてもしょうがないか~」くらいに思っていた。あのキューティーフェイスを生で拝めないのは残念だけど、私個人としては小瀧くんの推しポイントを「甘く整った顔から繰り出される飄々としたボケ」だと思っているので、お芝居は観られなくてもまぁいいやと(失礼)。

ところがどっこい、初日を迎えてみれば各所から絶賛の声が聞こえてくる。懇意にしているオタク友達からも「とにかく観たほうがいい」と勧められ、その場で世田パブの公式オンラインチケットサイトを教えてもらい、滑り込みセーフで1週間後のチケットを奪取した。
取れた座席は3階 A列 2番で、世田パブはわりと奥行きがあるステージなので見切れを心配したものの、結論から言えば小瀧くん及びシーンの主となるキャストさんのお芝居を観るには全く問題なかった。ありがたい。

「劇場公式からでも全然チケット買えるやん」となると、「ファンクラブ枠とは一体…」と思っちゃうのだが、演者のファン以外にも幅広い層に観てほしいという主催側の意図があるのかもしれない。きっとそうだよね。(大丈夫です、余りそうならオタクが買います)

胸が詰まるほどの罪悪感

ここからがやっと本題。お芝居の感想についてあれこれ書く前に、ストーリーをさらっておく。

19世紀のロンドン。その外見により「エレファント・マン」として、見世物小屋に立たされていた青年ジョン・メリック。肥大した頭蓋骨は額から突き出し、体の至るところに腫瘍があり、歩行も困難という状態だった。ある日、見世物小屋で彼を見かけた外科医フレデリック・トリーヴズは、研究対象として彼を引き取り、自身が務める病院の屋根裏部屋に住まわせることにした。メリックにとっては、その空間が人生で初めて手にした憩いの「家」となった。


はじめは白痴だと思われていたメリックだったが、やがてトリーヴズはメリックが聖書を熱心に読み、芸術を愛する美しい心の持ち主だということに気付く。当初は他人に対し怯えたような素振りを見せていたメリックも、トリーヴズと接するうちに徐々に心を開きはじめ、トリーヴズもまたメリックに関わることで、己の内心を顧みるようになっていく。


穏やかな気質のメリックには上流社会の人々の慰問が続いた。その中に、舞台女優のケンダル夫人もいた。メリックはケンダル夫人に異性を感じ、ときめく。そして普通の人間のように振る舞いたいという思いに駆られていく・・・・。

(公式サイトより)

さて、この異形のメリックを小瀧くんが演じたわけだけど、私はこの芝居を観ながらずっと巨大な罪悪感を感じていた。冒頭、まさに"身体ひとつ"といった姿でみずみずしい小瀧くんが登場するも、だんだんとメリックの歪な身体に変化していくそのシーンからずっとずっと罪悪感がひどかった。“醜い”姿形をしたメリックを、最上級に美しく、若さも生命力も滾っている小瀧くんの身体を通して見ることへの罪悪感。

「メリックが筋書き通りの“異形”の姿のままでステージに立っていたら、私は直視できただろうか?」
「たぶん…、というか絶対、見ていられない…」

この自問自答が繰り返されるたび、私が無意識にもってる差別意識とか、美醜への価値観とか、そういった黒い思想がどんどん自覚させられて凄くしんどい。こみあげてくる自分への嫌悪でむせ返りそうだった。

観劇後すぐ、この罪悪感の件を前述のオタク友達に話したところ、「そういう“無意識の差別”みたいなものに気づかせるためのキャスティングでもあったかもしれないね」という結論に行きついた。そう考えると確かに、メリックに小瀧くんが抜擢された意図がかなり明瞭になる。この罪悪感は、メリックを演じる人間がメリックと正反対の容姿をもっていなければ成立しない。その点において小瀧くんは、他のどんな役者よりもぴったりだ。

作品が問いかけてくること

ストーリーをかなり雑に分解すると、「“醜い容姿を持つ者”の心が実は美しく、何不自由ない恵まれた人間の方が心を病んでいる」というシンプルなプロットが見えてくる。この「非障害者の人々が、障害者を通して学びを得る(自分を知る)」って感じの構造は結構あるあるで、使い古されてると言ってもいい展開。調べてみたら、実話をもとに1970年代に戯曲化された作品だそうなので納得したけど、それをこの2020年に演ろうとなったことにまた意図を感じたりして。

メリックが家を手に入れてから出会う人々は、彼について「心が美しい」とか「芸術性がある」とか評価して親しくなっていくけど、それって彼の容姿が“異形”だから気づいたことなのでは?すべての誉め言葉に、「彼は異形なのに~~」という枕詞が隠されていないか?メリックを評価することで、自分と彼との間に境界線を引いてないか?容姿の醜さというフィルターを通さなければ心の美しさに気づけなかったって、ものすごく愚かなことなのでは?

障害の有無だけじゃなく、人種や性別やLGBTQまで、無意識に差別されてきたことを可視化していこうという動きが活発になってる今だからこそ。『エレファント・マン』という作品は、まさにそこで行われていることに対して観客に違和感をもたせることで、誰しもの内側にひっそり横たわっている差別意識について暗に問いかけていたのかも、と思わずにはいられない。

小瀧望(24)恐るべし。

この舞台と私との接点になってくれた小瀧くんのことも書いておかねばならん。言わずもがなだけど、特殊メイクなしに生身の肉体を歪ませてメリックを演じる小瀧くんの苦労は相当なものだろう。心労も身体のつらさも、想像を絶する(くれぐれも手厚いケアを受けてください…)。それだけ今回の演目に力を入れているということだし、真摯に向き合っているからこそ、いち観客の私も作品に対するいろいろな感情を受け取ることができたんだと思う。

冒頭でメリックの身体が形作られていく場面や、ケンダル夫人と接点をもったときの表情、力強い身のこなしと発声で一気に物語の核心を衝くシーン、独り静かに絶命している壮絶な顔などなど、本当に小瀧くんの新たな才能の開花を見たような気がする。単なる“イケメン”ではおさまらない24歳、恐るべし。

上に書いたことと重複するけど、小瀧くん自身が持つ「まさに今!!輝いてます!!!」みたいなきらめくスター性、整いまくった顔、抜群のスタイルに、メリックの異形さやボロ布の衣装なんかが掛け合わさると、もうコントラストがきつすぎて眩暈がしちゃう。でもそのコントラストこそ、小瀧くんがキャスティングされた理由のひとつだと私は確信したので、「”美”を作品に昇華させる方法にそんなアプローチもあるのね!」と膝を打つと同時に、これからもっといろんな界隈から小瀧くんの“美”を使った作品づくりをしたいというクリエイターが出てくるのではとゾクゾクする。未来の小瀧くんを楽しむためにも、『エレファント・マン』は2020年にこそ観ておくべき良質な舞台だった。

コロナの感染者数が爆増してる最中だけど、千秋楽まで残り6公演。小瀧くんの雄姿を1人でも多くの人が目撃できるように、無事に完走することを祈るばかりです。おしまい。