カップいっぱいのグリーンティー

ジャニーズWESTと神山智洋くん、ときどき日常話のブログ

『幽霊はここにいる』を観た話

神山くんを応援していると、素晴らしい作品によく出会う。オタ活してるだけで眩暈がするほど楽しいのに、出演作を追いかけるごとに新しい感動を知り、知見を得ることまでできる。自分の人生にもこんなに奥行きがあったんだと、まるでアカデミックな人間になったような気がするのも心地良い。つまりそんな気分でこのエントリを書いているわけです。まいど遅筆の感想文、舞台『幽霊はここにいる』を観た話。

語りたくなるやつ

この舞台が情報公開されたとき、失礼ながら阿部公房のことは全く知らなかった。60年以上前の作品だというし、戯曲本は絶版で手に入らないしで、あまりクラシックなものが得意ではない私としては大丈夫かなぁという感じで。やっと図書館で『阿部公房全集』を借りて読んでみたものの、もちろん現在に通じるところはたくさんあるし、これを今やる意義みたいなものも感じられたけど、そこまでピンとくるものがなかった。

そんな印象を抱えて迎えた初日。冒頭の場面で早くも「あっ、これ好きなやつだ」と確信した。そこからの3時間はあっという間。笑えるって意味ではもちろんのこと、それよりもっともっと大きな意味で“おもしろい”舞台だってことがすぐ分かった。これぞ演劇というような、目に見えるもの以上の情景を想像させられる演出。抽象的なセットの上で、象徴的な衣装を着て駆け回る役者陣。いつまでも耳に残るコーラスのメロディ(♪ジャームー、つーくれー)。戯曲にはないオリジナルの歌、ド派手な光、爆音。メタファー。エンタテインメント的な要素もあって楽しいし、戯曲を読んだ第一印象より何倍もおもしろくて、演出家のインスピレーションって凄まじいなと新鮮に驚かされた。稲葉賀恵さんは神山くんと同世代らしく、とすると私も同世代なわけで…。その才能に震える。いいなぁ~羨ましい。

私にとっての良い演劇は「語りたくなる作品」で、チケットを買うことで語りたさを買ってるようなものだ。神山くんの出演作は傑作ばかりなのでオタクをしていると忘れがちだけど、そういう良い演劇に出会うことは実は結構難しい。『幽霊はここにいる』がどうなるかドキドキしながら初日に入ったわけだけど、語りたくなるどころか何度も反芻したくなるし、劇場を出た後にも気付きがある素晴らしい作品だった。神山担してると自動的に演劇偏差値が上がっていくシステム、めちゃくちゃお得感ある。芝居を観る俺たちの眼差し、マジでムキムキやぞ!(突然の重岡くん構文)

深川という男

そうそう、公演前に戯曲を読んだとき印象に残ったのは「資本主義の描かれ方」と「家父長制」 と「金と権力の蜜月関係」だった。これらはすべて八嶋さんが演じる大庭三吉から感じるもので、神山くん演じる深川啓介がどんな見え方になるのかが一番想像がつかなかった。 深川は「幽霊が見える、幽霊と話せる」という変わった男だけど、だからこそなのか幽霊ばりに実態がつかめないというか…。幽霊よりもむしろ深川のほうが見えてこないぞ?みたいな。結末を知ればそれもある種の狙いだと推測できるけど、それを板の上に存在しながらどうやって体現するんだろうと。

幕が開いてみると、主人公・深川の最適解がそこにあった。深川が第一声を発した瞬間に思ったのは、彼は「水みたいに透明」だということ。化粧水ボイスと称される神山くんの声による印象だけでなく、冒頭の場面に水(描写としては雨/雨水)があることも影響してたかもしれない。そこにいるし確かに見えるけど、透明。なるほどこれが深川の見せ方か!演出って、芝居って凄い!と膝を打った。

一文無しでも幽霊に尽くし、下心がありそうな大庭の親切も素直に受け入れるピュアな深川。そういえば「ピュア」って「透明感」とも表現されるよなぁと気付いて愉快な気持ちになったり。そんなピュアさに愛嬌を感じ始めたころ、ひんやりしてくる幽霊との関係。幽霊にぶたれる深川の心の奥底にあるものを想像してつらくなる。そして怒号のように幽霊のスピーチを代読するシーン。それはいったい誰の言葉か…。

あんなにキャラの濃い大庭がそばにいながら、いつのまにか深川のことばかり考えてしまう。幽霊より深川が見えてこないって第一印象どこいった?キャラクターの中で唯一ほとんど衣装が変わらない人物なのに、そしてつかみどころのない男だったのに、場面が進むごと露わになる人間味にジリジリ心を掴まれていく。

私なりの主題

この舞台、観劇後の印象は人によってかなり幅があるように思う。単純にハッピーエンドというわけではないことは誰しも分かるけど、結局主題が何だったかは観る人の中にあるものに委ねられる気がする。私の『幽霊はここにいる』は、自罰感情との戦いの物語だった。

自分の代わりに死んだ戦友の霊を連れて、自分を「影」と言うほど彼のために尽くしていて、そのうち怯えはじめて、ついには痛みを感じるほどぶたれるようになる。終盤の台詞に「僕の唯一のねがいは、一人っきりになることだった」というのがあるように、深川にとって幽霊は決して好意的な存在ではなく、それは「自分の代わりに死なせてしまった」という罪悪感の現れに他ならないと私は思う。

ところで以前カウンセラーさんに教わったのだけど、PTSDベトナム戦争の帰還兵が発症したことから研究が始まったそうだ。その症状は、トラウマ的体験の直後ではなく、身の安全を確保して緊張が解け始めたころに現れるらしい。10年以上経ってから発症することも珍しくない。

劇中の深川はまさに“その状態”だと私は思った。お金はある意味、安心や安全の代替ともいえる。大庭のおかげで事業が軌道に乗り、儲かり始めたころから徐々に深川の様子がおかしくなってくる。床面の鮮やかな赤が「血」のメタファーなら、それを覆っている砂は記憶の「蓋」だろう。蓋を引っ剝がすのは深川を責めるように見つめる男たちで、あれは自責の念の具現化。その後ろでは唸るような不穏な音と銃声が鳴っている――。恐れおののいてひっくり返り、アスピリンを飲み込む深川の挙動がまさに“その状態”を示唆していると思う。

終幕の解釈

戯曲にはなかった終幕の演出はどう解釈できるだろう。まずあの画作りがとても素晴らしかったので、忘れないように言語化しておく。

明るく歌う市民たちに続いて楽しそうに歩く深川。砂の上では、ユーレイを乗せた椅子を担ぐ大庭ほか、傘をさした市民たちが愉快に足踏みしている。ひとりで砂の盆を出た深川の顔から笑みが消える。深川の対になる位置には箱山が立っている。市民たちのコーラスの奥から轟音が響いてくる。飛行機の音、爆撃の音、銃声にかき消されていく歌声。砂の盆にカーテンが引かれるとき、大庭ほか市民たちは恐ろしい表情で崩れ落ちていく。深川だけに照明が当たり、轟音が遠のいていくなかでステージ中央へ。暗闇でゆっくりとカーテンを開けて去っていくのは箱山。砂の盆が明るくなると市民の姿はなく、椅子や傘などが散らばっている。真ん中の赤い道に、さらさらと一筋の砂が降る。深川はそこへ近づいて、帽垂れが付いた戦闘帽を被り正面へ振り返る。手には水筒がぶら下がっている。ヒューヒューと風が吹く音と、小さく聴こえる市民たちのハミング。暗闇に包まれるなか、表情もなくただそこに佇んでいる深川。(終)

これに限らずあらゆる場面で「目が足りねぇ…!」と思うくらいステージ上の全てが表現だったので正確とは言えないけど、私が観に行った6回分のメモと記憶から書き起こした。『ロミジュリ』の感想ブログでも特に最後の画作りが最高だったと書いたけど、終幕の見せ方は舞台表現においてサビみたいなものだと思う。その舞台から何を持ち帰れるかは最後の画作りにかかっている。今回は観劇するごとに少しずつ深川以外の要素に気付いていったので、自分の中でいくつかの解釈が生まれた。

  • “本物の深川”から明かされた真実のあと、全てを受け入れても精神世界ではひとりぼっち。もしかすると、ジャングルで賭けに勝った時点で友人を見殺しにするのと同等の罪を負ったのかもしれない。たとえ幽霊が(見当違いな)自罰感情の現れだったとしても、それが消えたあとを幸福や平穏が埋めてくれるとは限らない。(ある日の観劇後のメモには「自罰感情への恐怖/自罰感情との絆/自罰感情への依存」というのがあった。負の存在さえアイデンティティの一部になってしまうことはあるよね。サバイバー的には、それが命を続ける手段だったりするよね。)
  • 全ての顛末は深川の妄想。賭けに勝ったあと自分だけ生き残り、戦地でひとりぼっちになった男の白昼夢。水筒の水も枯れて、絶望的に立ち尽くしている。
  • 丸ごと全部、箱山が書いた私小説。中盤の台詞から、箱山も戦地に行っていたことが推測できる。友人を見殺しになどしていなかった、という結末が欲しかったのかも(終盤の台詞「筋を通すついでに、自分も大事にしたいと思っただけ」)。

どれを答えとしても心がざわつくし、考えればもっと別の解釈があるかもしれないし。終演後も何度も反芻できることを私界隈では「ずっと味がする」と言うのだけど、まさに今作もそういう舞台ということだ。まぁ神山くんが出てるのはだいたいそうだけどな!

渋谷とPARCOと資本主義

1回目は初日の夜公演を観たのだけど、終演後にPARCO劇場を出ると渋谷のギラギラしたネオンと喧噪に包まれて、このギャップすら作品の要素なのでは!?と思わされた。『幽霊はここにいる』は一貫して、資本主義の有り様をシニカルに描いている。カネとモノに翻弄される市民を客観して愉しんだ私たちが、「あ~おもしろかった!」と膨れたお腹をさすりながら一歩外へ出た途端、まさに資本主義の結晶みたいな渋谷の景観にぶん殴られるのだ。「市民って私じゃん!!」

そうと気付くと、資本主義を単純に批判的な目線で捉えることもできなくなってくる。この都会の中心で、立派なビルの8階で、どっさり砂を敷いた板の上で芝居をやること自体が、“資本”あってこそできることなのだから。たったいま味わった3時間の観劇体験も、資本主義の結果のひとつであることには違いないのだから。興行は資本から生まれるのだ!(ところでPARCO劇場はどの席に座っても死角がなくて観やすくて、椅子も快適で最高!PARCOの資本に感謝!!)

チケットの値打ち

物語の要ともいえる、大庭の印象的な台詞に「物でも人間でも、値打ちってものはな、他人がそれにいくら支払ってくれるかできまってしまうものなんだ。金を払うやつがいりゃあ、それが値打ちになる」というのがある。これがとんでもなく真理だなと思うのは、まさに芝居のチケットなんてその代表みたいなものだからだ。この台詞を調子よく演説する大庭があっぱれなんだけど、それを聞いている私を含め客席の全員が払ったチケ代のことがサッと頭をよぎるから余計に愉快でたまらなかった。「金を払うやつってウチらじゃん!!」

ちょっと話が逸れるけど。あらゆるコンテンツの中でも、舞台は特に観劇するまでのハードルが高いぶん、“払う価値”を見出せない/見出さない人のほうが圧倒的多数だと思う。実際、オタク以外の友人知人でチケットを買って舞台を観に行ったことのある人なんてほぼいない。冷静に考えてみれば、ある程度の情報は出ているとしても、量も質も分からないのに前売りチケットを買うなんて行為はほとんどギャンブルでしかないわけで…。それでも手を出さずにはいられないのがファン仕草であって…。オタクしてると当たり前になってくるけど、コスパ/タイパ至上主義の現代で未知の3時間に1万円以上も払うってかなり特殊だ。

それについての良し悪しどうこうではなく、演劇界に何かしてほしいってことでもなくて。強烈な物価高(というか労働者を舐めてる低賃金)でモノの値段について考えさせられることが多いなか、オタク思考で反射的にチケットを買ってる自分がいて、そんな自分の消費行動がちょっと可笑しく思える戯曲が60年以上前に書かれたことに改めて畏怖の念を抱いたという話。

ちなみに『幽霊はここにいる』のチケットは全席1万2000円。演劇チケットの中でもわりと高いほうだし、一般でとれたぶんも合わせたら結構な額になったけど(笑)、その価値がちゃんとある舞台だったので大満足。いつもお値段以上の体験を叶えてくれる神山くんに感謝!

主演・神山智洋の才と技

だらだら講釈を垂れる前に(ここまで4000字超)、何よりも神山くんについて記録しておかなければ。既にたくさんの演劇人に評価されてることからも、唯一無二の才能や技術をもってることは明白。とにかくあらゆる要素においてPARCO劇場の看板に相応しい仕事をしていたことが誇らしくて嬉しくて…。初日は一緒に入ったねぎちゃんと感想合戦しながら一晩中褒め倒した記憶。

純真

戯曲では明文化されていない、つまり言葉では言い表せない深川の人間性を、あんなに純真に表現できたのは神山くんが思考を深めたからに違いない。さらに神山くん本人がもとから持っているピュアさが、結末の展開に説得力をもたらしているように感じた。ちょっとでも邪心がちらつくような役者では、幽霊の正体について観客を納得させることはできないでしょう。

そもそも観る者に「幽霊は…いる!」と思わせなければ、この物語は走り出すことすらできない。だからそのように見せるのは当然かもしれないけど、それを念頭に置いても神山くんの演技のディテールには恐れ入った。「台本に幽霊の言葉がない箇所は、自分で考えたものを書きこんで稽古した」と仰っていた通り、本にないところでも確かに幽霊と会話してるし、自然と視線で捉えてるし、顔色を窺ってる。例えばファッションショーの奥で幽霊に何か言われた深川が、照れたような困ったような表情でニコニコしていたのとか。劇中では何気ない場面でも、後から反芻してみると“見えてる”の見せ方について丁寧に考えて作られていたことに気付く。誠実な仕事ぶりに敬礼。(見習いたい)

舞台上の芝居において、声は特に重要だ。神山くん担をしてると忘れがちだけど、演劇で「台詞をちゃんと聞きとれる」というのは、当たり前のようで実はそうでもない。受け手の観劇習熟度に関係なく、誰にでも届く発声というのは賞賛に値するでしょう。

私は7年前にツイッターを始めたときからずっと「神山くんのロリポップボイスを愛でる」という一文をbio欄に掲げている。当初は歌声のことを指していたんだけど、今回改めて芝居も含めてすべての声色を推してることを実感した。本当に類い稀な才能だよ。あとシンプルに声がデカい。声量がとんでもない。地声がメガホン級。良い役者はみんなそうだから嬉しい(八嶋さんも声がデカい!)。

それと『オセロー』のときも思ったけど、本の覚え方が尋常じゃないくらい正確。このエントリを書きながらも戯曲本をなぞっているんだけど、一言一句が神山くんの声で再生される。頭の中に丸ごと一冊入ってるとしか思えない。アイドルのお仕事も平行しつつあのレベルまで完璧に台詞を入れるって、紛れもなく研究の賜物ですよね。

変化

数回観るなかでオッと思ったのは、幽霊の身長について。公演が始まって数日したくらいから、幽霊を見上げていたのが同じ目線に変わっているのに気が付いた。パンフによるとワークショップでは幽霊を実体にして芝居することもあったそうなので、最初は“本物の深川”役の山口さんの高さにしていたのだろうと推測。物語の顛末が「AがBでBがAで…」みたいなことなので難しいけど、結局幽霊として見ていたのは自分自身の姿だって解釈に行きついて変えたのかなと。相談の上でそうしたのか神山くんが発想したのかわからないけど、日々進化し続ける演劇の楽しさってこういうところにあるよなぁと思ったり。

あと終盤、ミサコと電話した後の感情表現はその日ごとパッションに突き動かされているように見えて興味深かった。砂をあつめてじっと自分の心と向き合っているような日もあれば、投げやりにひっつかんだり散らかしたりして悲劇の渦中にいる日もあって。またひとつ進化しそうな演劇技術の萌芽を見た。あれ神山くんに解説してほしさあるけど、本人でも言語化できないかもしれない。言葉を使わない内心の表現、言葉を使わないからこそ残るものがある。

歌/ダンス

舞台に出演するにあたってのインタビューで「アイドル業との違い」とか「アイドルが俳優をやることについて」みたいな質問を結構見る(パンフにもある)。これって神山くんに語らせるにはもうほとんど意味がない問いだなと思うようになった。もちろん本業がアイドルであることには違いないのだけど、舞台に立つ神山くんは役者として確実に一本立ちしているし、それに驚かされるようなフェーズも通り越しているから。

そういう段階に達しているからこそ、戯曲にはなかった戸籍の歌とダンスがより一層ハイライトとして機能していた。ある意味、逆手にとった演出とも言えるかな。客席から声が漏れるわけではないけど、確実に「わぁ…!」って色めいてるあの感じ。あれは神山くんがアイドルじゃなかったら絶対に起こらないよね。神山くんの“華”に敬意を払ってくださった稲葉さんに感謝。微細なビブラートやテク大盛りのダンスは、流石の一言に尽きる。ジャニーズWESTの曲より全体的にキーが低い歌だったから新鮮に聴こえたのもよかった。(神山くんのミュージカルも観たいので、業界の皆様はくれぐれも宜しくお願いいたします。)

愛と優しさの演劇人・八嶋さん

“第二の主人公”という言葉では足りないくらい、この舞台の中心人物だった八嶋さん/大庭の記憶も大切にしたい。『ロミジュリ』の感想でも書いたけど、八嶋さんの芝居を観られるのは本当にスペシャルなことだ。照史くんの次は神山くんと共演してくださるなんて、とんでもない幸運!『ロミジュリ』のソフィアには超泣かされたけど、『幽霊』の大庭はどこまでも明るく快活で、思い出すだけで楽しい気分が蘇ってくるチャーミングなキャラだった。

愛嬌いっぱいの人柄を演じるのが八嶋さんの専売特許なのは周知の事実、しかしそれにしても見事なハマり役。モノの価値についてのあっぱれな演説や、権力者たちを手玉に乗せていく調子の良さ、宣伝カーのアナウンス「日本経済の~復興のため~」の節回し(面白すぎてねぎちゃんの前で何回もモノマネした笑)など、言葉の芝居はもちろんのこと。ハンカチをひらひらさせる所作とか、戸籍の歌の可愛い踊りとか、動きの芝居も含めて大庭の人間性を戯曲以上に魅力的に体現していらっしゃった。

劇場全体を巻き込んで、笑いどころをたくさん作っていたのも八嶋さん。客席をお花畑に例えて見回すところとか(神山くんもちょっと遊べるシーンになってて嬉しかった)、幽霊後援会大発会式の冒頭とか、あれはまさにベテランの業だ。“トップオブ愛嬌おじさん”の業ともいえる。物語への熱を醒ますことなくああいう場面を作るのって実はとても難しいんじゃないかな。

芝居の中でもキャストや楽器隊を楽しませてたり、田中邦衛さんのモノマネを入れたり(初演へのリスペクト!)、カーテンコールでは神山くんがひと言話すようにいつも促してくださったり…。サービス精神の化身なのよ。演劇を愛し、役者を愛し、お客様を愛する…そんなお人柄が伝わってきていちいち心に染みた。そこにいる全員を楽しませようとする一つひとつの仕草を見て、「面白さは優しさから生まれる」って真理に気付かされたね。WESTもみんなそうじゃん?優しいから面白いんだよなぁ。

その他メモ供養

  • 戦争の体験についてミサコと話していた箱山の「ただ、たいていは、忘れてしまうんだね」って台詞、照明の効果で強調してあったけど、そこから派生する想いがしんどくて抱えきれないのであえて受け流した。この作品に限らず、最近は映画でもドラマでも「あの戦争を忘れない」的な捉え方をするのに違和感と後ろめたさがあってモヤモヤするので、あくまでも深川個人に遺された戦争の傷のストーリーとして観た。
    モヤモヤの正体はたぶん、「忘れない」ってスタンスの背景にある“過去の遺物感”と、忘れなかったところで今迫っている危機には全く歯が立たないっていう無力感。実際今も戦争してる国があるし、日本だって憲法9条改正案とか防衛費増額とか不信の種が日常的に湧いてきてるし。眼前にあるのに「忘れない」は変だなと思いつつ、直視するのはしんどくて無理。まともにキャッチしたら不安と嫌悪と無力感がワーーーっと襲ってきてパニックになりそうだったから知らんぷりしちゃった。弱くてごめん
  • PTSDの件にしても自分と重ねすぎるのはどうなんと思うけど、幽霊のスピーチの一節「おれは死にたい、おれは生きたい、もう一度死ぬために、もう一度生きたい」というのが自分の気持ちとぴったり重なって背筋が凍った。私もどこか、自分のことを死人のようだと思ってるのを自覚させられたような、複雑な気持ち。まさに「幽霊はここにいるよ」である。
    ただ、別の場面の深川の台詞に「人間らしくするためには、なにかしなけりゃならないからな……なにかするってことは、他人に影響をあたえることだろう」というのがあって。まさにその通りだと思ったからこのブログを書いてるまである。だから私はいま、とても人間らしいのだ。
  • パンフレットが良質すぎる!特に深川と幽霊の対談はめちゃくちゃおもしろい企画で、読むたびにアッと思うところがある。これを【己を深川だと思い込んでいる吉田】と【己を深川だと思い込んでいる吉田が通訳する吉田の本心】として読むとまたおもしろい。なるほど幽霊の野心は農村生まれの引け目から来るものかもしれない…とか、入れ替わりが起こった背景には本物の深川への憧れがある可能性も…とか延々と考えられる。あんまり考察してると混乱で頭が痛くなってくるから読み込みすぎに注意。
  • 木村了さん:新聞社でおじさん連中が儲け話をワーワーやってる後ろの、「アホくせぇ」みたいな振る舞いさえ画になる。箱山のようなシュッとキリッとした役がこんなに似合う方だとは露知らず(そういえば秋に観た『レオポルトシュタット』でもピリッとした役回りだったな)。神山くんと張るくらいピシャッと動いてたのにびっくり。声だけじゃなくて身体にもキレがある。箱山の存在がこの作品の解釈を何層にも深めているのは間違いなく、終幕でカーテンを開けてるのに気付いたときは鳥肌が立った。
  • 秋田汐梨さん:八嶋さんに仕掛けられて笑っちゃってたのがso cute!そんな秋田さんにさらに仕掛ける神山くん(キミ笑ってるよねって感じで延々と顔を覗き込む)という珍しい光景を見ることができたのも有難くてな。何回見ても芝居がブレてることが全くなくて、特に箱山に深川の戦争体験を話すシーンがずっと良かった。♪デンデデンデン電気は、魔法の召使い!ツッツツ!
  • まりゑさん:初日を観た帰り道、モデル嬢の喋り方をマネしてねぎちゃんと2人で大いに盛り上がった。鼻にかかった声、めちゃくちゃ面白い。そして戯曲のト書きに「女、おそるべき、しなをつくる」というのがあるんだけど、まさにおそるべきしなをつくるというのはコレ以外にないって動きをしてるのよ。終始、市民Iを演じてるときもずっと指先まで美しくて見惚れた。
  • 名越志保さん:女性キャストの中で私的ナンバーワン。まず声が最高です。劇場を出てからも脳内で再生できる声。市民のコーラスの中でもひときわ好い声が聴こえていて、コレ誰だ…って主を探したらそれも名越さんだった。歌声もええんかい。和装で砂の上をダッシュするのも凄い。別の作品でも拝見したい。
  • カズマ・スパーキンさん:戸籍の歌、後ろの写真群の中でひときわキャッチーな表情をしてたのが大変愉快だった。神山くんが客席に背を向ける一瞬で笑かしに行ってたような気が…そして神山くんも笑っちゃってたような(可愛い)。あと声も良き。
  • 田村たがめさん:物語が進むにつれて、大庭の迫力に負けないどころか、圧倒されるようなパワフルな女に変わっていく…単純に“妻”とか“母親”とかの記号じゃないところが推せる。派手なパンツスーツがめっちゃ似合ってて格好いい。ラストの悲鳴のような笑い声がカオス度を高めてて最高、いつまでも耳に残る。
  • 神山くんが舞台をやるたび短絡的に「映像を残せやぃ」と言ってしまいがちだけど、今作においてはそれもちょっと違うような気がしていて。それはやっぱりあのハコで観ることで完成するものがあるし、見えないはずの幽霊を画角で区切ってしまうのも違うし。そういう意味でも超演劇だったし良いものを見せてもらったなと思うばかり。パンフレットで稲葉さんが仰っている「今ここにいるお客様としか共有できない」という言葉にも通ずるかと。

大阪で大千穐楽を迎えてからまもなく1ヶ月。(時の流れが早い。感想出すのが遅い)。ひとつも中止になることなく全公演をやりきったカンパニーの皆様に拍手!神山くんは怒涛の年末年始だったことでしょう、年を跨いだ公演本当にお疲れ様でした!そして素晴らしい作品を作ってくださった稲葉さんに拍手!読売演劇大賞、演出家賞おめでとうございます!大団円!

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ここ最近はずっとスランプ(文才なさすぎて腹が立つ症候群)でこれ書くのもやたら大変だったけど、なんとか公開できるレベルにできてよかった~。社会復帰をめざす私にとっては大きな一歩だ。舞台初日が誕生日で、三十路に突入したその日に神山くんの現場へ行けたことマジで幸せだったし、世界一面白いオタクことねぎちゃんと一緒に観られたのも最高だった。あの幸運と感謝の念を忘れないようにしなきゃな!30代もモリモリばりばりオタ活したいな!するぞ!

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●2月22日 追記


なんとなんと!八嶋さんがこの感想文を読んでくださった!(たぶん)
嬉しくて一晩中小躍りしました。以前もブログのリンクを貼ったツイートにファボを押してくださったことがあり、そういう細やかな優しさをまたも感じる出来事となりました。八嶋さん、本当にありがとうございます!!