カップいっぱいのグリーンティー

ジャニーズWESTと神山智洋くん、ときどき日常話のブログ

反出生主義についてぼんやり考える

2週間くらい前、反出生主義について書かれた記事と論文を見つけた。それからわりと自分の立場について考えていて、昨日やっと全部読むことができたので、発見したことなどを書き留めておく。

「反出生主義」との出会い

私が初めて「反出生主義」という言葉と自分を紐づけて考えたのは、舞台『丘の上、ねむのき産婦人科』の件で谷さんに取材されたときだった。会話の中で「いわゆる反出生主義的な考えですね」というようなことを言われて、初めてぼんやりと自覚。そのときは「こういう考え方に名前があるのか~へぇ~」くらいに思っただけ。

ところが、舞台のパンフレットに私の話が書いてあり、そこに<女性の方はいわゆる「反出生主義」であり――>とあるのを読んで、ちょっと面食らった。字面で見たら、なかなか壮大な思想のように感じられてビビったのだ。そのあとにも反出生主義についての谷さんなりの印象が書いてあって、読んでるうちに「私は本当に反出生主義なのかな?もっと個人的な思考回路で、そんな大層なものではないのでは?」とかちょっと考えるようになった。

舞台を観た(パンフを読んだ)数日後のツイートがコレだ。

Wikipediaの記述を読んで「まぁ確かに私は反出生主義だな」と思ったものの、ここで定義されている「誰しもが出生に否定的であるべき」というような主張の強さに若干の違和感を抱いてたことがわかる。

私は反出生主義ではない(たぶん)

そこで冒頭の記事だ。読んでみると、哲学者の森岡正博さんは反出生主義を「全ての人間は生まれないほうがよかった」「全ての人間は子供を産まないほうがいい」という思想、と定義している。「全ての人間は」というところがミソで、やっぱり私の考え方とは乖離してるような気がする。

さらに記事中には、『反出生主義のカテゴリー』としていくつかの考え方が分類されていた。私の考え方と近いのは「苦痛回避型」。

苦痛回避型 もし生まれなかったならば苦しみは感じなかっただろう。もし産まなければ、苦しみを感じる子供は出現しないだろうと考える。

ただ、カテゴリーの中には『混同されることもあるが反出生主義ではないもの』というのもあって、その2つ「チャイルドフリー」「反・出生奨励主義」のほうがもっと自分に近い考え方だということに気が付いた。

チャイルドフリー 私は子を作らない。しかし私は「すべての人は子を作るべきではない」とは主張しない。

反・出生奨励主義 誰かに産めと強制するのは必ず悪い。国家、社会、親族、個人、イデオロギーによる出産強制・賛美に反対する。

つまり「全ての人間は――」という他者を巻き込んだ強い思想ではなく、チャイルドフリー、反・出生奨励主義である私は、森岡さんの分類によれば反出生主義ではないということになるのだ。これは大発見だ!

やっぱり反出生主義かもしれない?

次に論文のほうを読んでみると、様々に反出生主義を唱えてきた人達の主張が見えてきた。共感できるところが多くて、おや…私やっぱり反出生主義じゃね?という気持ちになってくる。
例えば、テオフィル・ド・ジローという作家の「子供の第一の権利は、生まれてこないことである。」という一節や、小冊子『反出生主義宣言』の「我々は“産んでいいか”と尋ねられもせず強制的に生み出された」という主張とか。

さらに、上記の記事よりもさらに細かく反出生主義のカテゴリーが分類されていて、自分が「同意不在型」「出産否定型」にも当てはまっていることが分かった。

同意不在型 生まれてくる子からの同意が不在である。

出産否定型 生まれることは必ずしも悪くない。産むことは必ず悪い。

出産否定型の「産むことは必ず悪い」という主張が、前段で書いた私のスタンス(「全ての人間は――」という他者を巻き込んだ強い思想ではない)と矛盾するような気もするけど、自分の中では両立されているので仕方ない。
「全ての人間は子供を産まないほうがいい」とは思っていないけど、産んだ人に対して「よくもこんな世界に産めますね」と非難したくなるような気持ちが少しばかりあるからだ(当然言葉になんてしないけど)。

反出生主義が良いとか悪いとかの話ではないので、自分に定義づけられるかどうかをただ考えてるだけなんだけど、考えれば考えるほどいろんな気持ちが出てきて迷子になるので興味深い。関連本とかも読みたいけど、まぁ『LUNGS』のほうが先かな。

出生を擁護する者の義務

実は私が上記の論文の中で一番腑に落ちたのは、反出生主義の解説ではなく「出生を擁護する側」について言及してる部分だった。

「生まれた者のうち少なくとも1人は不幸になるだろうから、その1人の不幸を防ぐためにすべての出生は行われるべきではない」というロシアンルーレット型について考察されている段落にある、以下の文章。

出生を擁護する者は、人生が不幸なものになってしまいそうな人間を不幸な人生への道筋から確実に脱出させる強い義務を負う

出生を擁護しようとする側は、人類が生きていくうえでの自然環境・社会環境をこのようなものにしないために大きな努力を今後も継続しなければならない
(※このようなもの=地球環境が激変して未知の放射線が地球に降り注ぐ、など)

これはもう正に私が思っていることを100%言語化してくれている文章だ。「子供が欲しい」「子供を産んだほうがいい」と私に言ってくる人達に投げ返したい言葉。逆に言えば、私はここで言われているような義務・努力を遂行できる自信がまったくないから子供が欲しくない(産めない)と考えている節もある。

出生を擁護する側の人達は、こうやって言われたらどう返答するんだろう?まぁ「やったるわ!」としか言えないか…。もしくは「無茶なことを言うな」とか?どっちにしても、確実に不幸が回避できないのなら産みたくありません、としか思えないんだよなぁ。うーん。

生まれてこない方がよかった?

反出生主義は「生まれてこない方がよかった」という気持ちから起因することが多いようだ。実際私もそう思うことがあるし、そんな趣旨のことを言葉にして親に泣かれたような遠い記憶もある(ひどい)。
「生まれてこない方がよかった」と思うのは、私が様々な不幸を背負っている自覚があるからで、その不幸と付き合いながら生きるのがつらいからだ。この世の人生は本当に厳しい。

ただ一方で、「生まれてきてよかった」という思いも私の中に確実にある。ねぎちゃんとジャニーズWESTの話題でゲラゲラ笑ってる瞬間や、神山くんのパフォーマンスに感動してるとき、てらちゃんとお酒を飲む夜、原稿の出来を褒められたときなど、毎日ではないけど確かに幸福を感じていることがある。

私は自分の子の幸福を保証できないし、不幸を回避させられる自信もないから「産みたくない、生まれないほうがいい」と思ってる。だけど、私の子だって私が感じているような幸福を経験できるかもしれないのに、その可能性を根本から奪ってもいいのだろうか。なんかそんなことをずっと考えてる。